元商社マン妻駐在物語

合計15年の駐在生活での体験、そして夫定年退職後の第2の人生のチャレンジ、日々の感謝、恵みを発信していきたいと思います。

イエス様の復活までの3日間に思うこと。

おはようございます!

先週の日曜日は、イエス様が十字架にかけられて、3日目に復活されたお祝い、イースターでした。

日本はクリスチャンの国ではないので、ほとんどお祝いもされず、馴染みのない言葉ですが、クリスチャンにとって何よりも重要な意味があります。

それは、イエス様が、人間の罪のために、罪の贖いのために、十字架にかかっても、死んだままだったら、イエス様を信じる希望がありません。

罪の究極の結果である、死を克服して甦られたところに希望があるからです。

この一週間、あらためてイエス様が十字架にかけられた時のこと、そして、甦られるまでの3日間のことを考えてみました。

みんなから蔑まれ、 鞭打たれ、 もっとも辛い十字架の刑にかかり、

十字架の上で、 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」 と叫びます。 肉体的にも、究極の苦しみを経験し、 お父様である、神様からも見捨てられたという絶望も経験しているのです。

その時、神様はどこにいたのでしょう?
何故、黙っておられたのでしょう?

今まで、その事を深く考えたことがなかったのですが、 *学びのおかげもあり、 大きな気付きがありました。

神様は、片時も離れず、

その心は、十字架で苦しんでいるイエス様と同様に、苦しみと悲しみでいっぱいだったと思いのです。

じゃあなぜ助けなかったのか?

それは、それを通してしか出来ない、大きな恵み、(全ての人の罪からの解放と救い) を知っていたからです。

例えがピッタリかどうか分かりませんが、 親が、自分の愛する子供が、その子の人生の目的のために、通るプロセスを、助けたいけど、じっと我慢して見守るように。

そして、イエス様が亡くなる前にもう一度叫びます。

「It is finished(完了した)」

エス様がご自身も自分の役目をご存知で、その役目を全うした。 と言って息を引き取りました。

そして、2日目、何も起こりません。

その時の弟子たちの気持ちはどうだったのでしょう?

絶望ですよね。

自分たちが、神様の子と信じて疑わなかった、イエス様が、死んでしまった。

自分たちが信じてきたものは何だったんだろう? そもそも神様なんているの? って思ったかもしれません。

そして、3日目。 イエス様が甦って弟子たちの前に再びあらわれます。

今まで悲しみと絶望で苦しんでいた人たちに喜びと希望が湧き上がりました!

このイエス様の復活の3日目を見る時、 私たちの人生にも新たな励ましがあるように思います。

神様信じていたって、どうしてこんなことが起こるの?

どうして助けてくださらないのですか?

神様、どうして黙っておられるのですか?

誰でも一度はこんな風に神様から見捨てられているような経験があると思うのです。

エス様自身も経験しているのです。

でも神様のサイレンスは、神様の不在ではないのです!

人生には私のちっぽけな信仰なんか、吹っ飛んでしまうようなことがあるかもしれない(そうならないために、常日頃祈っているのですが😅)

それでも、そんな事が起こっても、 このイエス様の3日間を思い出し、 決して信仰を諦めず、 希望の日が必ず来る事を信じて行きたいと強く思いました。😆😆😆

余談ですが

弟子の1人のトマスは、他の弟子たちが、甦ったイエス様を見たと聞いた時、 「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れて見なければ決して信じません。」と言いました。 そして、イエス様はトマスはの前にあわられ、 「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。

信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」

とおっしゃっいました。 トマスが信じると、 さらにこう言われます。

「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです。」

今の時代、直接神様が現れて、語っていただける経験する人は多くはないかもしれませんが、 それでも、イエス様を信じて、信仰の一歩を踏み出してくださる方がひとりでも多くなりますようにと祈っています。

特に大好きな、Rさん、Hさん、Aさんが更に神様からの大きな祝福を受け取れますように。

*今学んでいるセッションです。(英語版しかなくてごめんなさい〜) https://unanswered.prayercourse.org/sessions/