静嘉堂文庫美術館
こんにちは!
昨日、家の近くにある、静嘉堂文庫美術館に行ってきました。
世田谷区の閑静な住宅地の一角地にあるこの美術館ですが、この週末を最後に、丸の内に美術品が移され、「旅立ちの美術」のこの展示が最後となります。
12時ごろ着いたら、なんと並んでました。😳
入場制限をしており、14:30から入れる入場券をいただきました。
それまで、時間潰しに近くの民家園に。
江戸後期の典型的な農家だそうです。
それからこれまた住宅地の真ん中にある、Nishiannカフェに。
ここでも並んでました😅 メニューは手打ちそば とキーマカレー、 そして、自家製ケーキとコーヒー、紅茶。
主人は手打ちそば、私はキーマカレーを食べたけど、とっても美味しかったです。😁
今日は時間がなくて、ケーキセットは諦めたけど、またゆっくりと行こう〜って思いました!
さて、静嘉堂美術館に戻って、鑑賞。
今回のテーマは旅立ち〜出会いと別れの物語
旅立つ友への贈り物品や、旅立ちに関する掛け軸、陶器、などの数々の展示。
海外にもこのような展示はあったけど、今回は厳選されたものがコンパクトに展示されていたので、その一つ一つをじっくり鑑賞することができました。
その中から一つ、《曜変天目》というお茶碗をご紹介します。
茶の湯の器は渋くて地味なイメージがありますが、この、曜変天目は、お茶碗の中の模様が星のように輝いて見えることから、かがやくという意味のある曜が使われたそうです。
最初に写真で見たときには、青地に幾つかの丸の塊が浮き出ていて、そのいくつかの塊の周りが薄ら黄色に染まっていて、どうしてこれが貴重な国宝なのか?って思ってしまいましたが、🙄
実際に見てみると、星に例えられているのに納得できました。 陽の光に晒したら、きっと、もっとその輝きが鮮明になるんだろうなぁなんて思いました。
さて、どうしてそんなに貴重なのか、簡単に商品説明いたします。
先ず、曜変天目は、鎌倉時代から室町時代に中国から日本に持ちかえられたもので、南宋時代(1127年)に中国の福建省で焼かれたものです。
どうしてキラキラと光る紋様ができたのか、科学的にわかっていないそうです。
一説によると、
沢山の焼く中で、偶然にできたのではないかと言われています。
完全な形で残っているのは、世界中に三点だけで、その三点とも日本にあるそうです。
静嘉堂美術館でも年に一回ぐらいしか展示されないようです。
写真では分からない魅力のある、曜変天目、是非機会があったら、実際に見てくださいね〜
長年海外にいて、ヨーロッパの素晴らしい美術館巡りをしてきましたが、実は、日本の美術館、あまり、行っていなかった。😅
せっかく日本にいるのだし、(もう当分海外には行けないし😭) もっと日本の美術館を楽しんでみたいと思いました!
今日も皆様が良い日をおくれますように❣️
イエス様の復活までの3日間に思うこと。
おはようございます!
先週の日曜日は、イエス様が十字架にかけられて、3日目に復活されたお祝い、イースターでした。
日本はクリスチャンの国ではないので、ほとんどお祝いもされず、馴染みのない言葉ですが、クリスチャンにとって何よりも重要な意味があります。
それは、イエス様が、人間の罪のために、罪の贖いのために、十字架にかかっても、死んだままだったら、イエス様を信じる希望がありません。
罪の究極の結果である、死を克服して甦られたところに希望があるからです。
この一週間、あらためてイエス様が十字架にかけられた時のこと、そして、甦られるまでの3日間のことを考えてみました。
みんなから蔑まれ、 鞭打たれ、 もっとも辛い十字架の刑にかかり、
十字架の上で、 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」 と叫びます。 肉体的にも、究極の苦しみを経験し、 お父様である、神様からも見捨てられたという絶望も経験しているのです。
その時、神様はどこにいたのでしょう?
何故、黙っておられたのでしょう?
今まで、その事を深く考えたことがなかったのですが、 *学びのおかげもあり、 大きな気付きがありました。
神様は、片時も離れず、
その心は、十字架で苦しんでいるイエス様と同様に、苦しみと悲しみでいっぱいだったと思いのです。
じゃあなぜ助けなかったのか?
それは、それを通してしか出来ない、大きな恵み、(全ての人の罪からの解放と救い) を知っていたからです。
例えがピッタリかどうか分かりませんが、 親が、自分の愛する子供が、その子の人生の目的のために、通るプロセスを、助けたいけど、じっと我慢して見守るように。
そして、イエス様が亡くなる前にもう一度叫びます。
「It is finished(完了した)」
イエス様がご自身も自分の役目をご存知で、その役目を全うした。 と言って息を引き取りました。
そして、2日目、何も起こりません。
その時の弟子たちの気持ちはどうだったのでしょう?
絶望ですよね。
自分たちが、神様の子と信じて疑わなかった、イエス様が、死んでしまった。
自分たちが信じてきたものは何だったんだろう? そもそも神様なんているの? って思ったかもしれません。
そして、3日目。 イエス様が甦って弟子たちの前に再びあらわれます。
今まで悲しみと絶望で苦しんでいた人たちに喜びと希望が湧き上がりました!
このイエス様の復活の3日目を見る時、 私たちの人生にも新たな励ましがあるように思います。
神様信じていたって、どうしてこんなことが起こるの?
どうして助けてくださらないのですか?
神様、どうして黙っておられるのですか?
誰でも一度はこんな風に神様から見捨てられているような経験があると思うのです。
イエス様自身も経験しているのです。
でも神様のサイレンスは、神様の不在ではないのです!
人生には私のちっぽけな信仰なんか、吹っ飛んでしまうようなことがあるかもしれない(そうならないために、常日頃祈っているのですが😅)
それでも、そんな事が起こっても、 このイエス様の3日間を思い出し、 決して信仰を諦めず、 希望の日が必ず来る事を信じて行きたいと強く思いました。😆😆😆
余談ですが
弟子の1人のトマスは、他の弟子たちが、甦ったイエス様を見たと聞いた時、 「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をその脇に差し入れて見なければ決して信じません。」と言いました。 そして、イエス様はトマスはの前にあわられ、 「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じないものにならないで、信じるものになりなさい。」
とおっしゃっいました。 トマスが信じると、 さらにこう言われます。
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じるものは幸いです。」
今の時代、直接神様が現れて、語っていただける経験する人は多くはないかもしれませんが、 それでも、イエス様を信じて、信仰の一歩を踏み出してくださる方がひとりでも多くなりますようにと祈っています。
特に大好きな、Rさん、Hさん、Aさんが更に神様からの大きな祝福を受け取れますように。
*今学んでいるセッションです。(英語版しかなくてごめんなさい〜) https://unanswered.prayercourse.org/sessions/
祈りセッション7-Listening
こんにちは!
今日のセッションは、神様からの声をどうやって聞けるか。
先づ、聖書は、 人間は神様と共に歩み、神様と話せるように、始めからデザインされていると言われています。
実際に、聖書には、神様が人間に直接語られている場面がたくさん出てきます。
神様は今でも、私たちに語りかけてくれるのでしょうか?
もちろん!
でも、多くの人が神様の声を聞けないのはどうしてなのでしょう?
私たちが、他の人とコミュニケーションを取るとき、まず、相手が誰であるかはとっても大切です。
例えば、自分の親しい人から携帯に電話がかかってきたら、もう名前が登録されているので、すぐ分かります。
そして、既に関係が築けているので、 会話も大抵はスムーズに進みます。
でも、初めの人から電話がかかってきたら、自己紹介から始まり、個人的なことを話すまで時間がかかったりします。
神様ともそれと同じで、 神様からの言葉である聖書を読み、その言葉の意味を思いめぐらせ、心の中で、祈りを通して、神様との繋がりの中で、神様からの自分へのメッセージをキャッチできるアンテナが研ぎ澄まされていくのでしょうね。
聖書の中に、神様が、少年だったサムエル(後にイスラエルの偉大な裁き司) に初めて語りかける場面が書かれています。
神様が、夜中にサムエルを呼んだ時、 サムエルは、自分の仕えている祭司エリが自分を読んだのだと勘違いして、エリのところに行きます。
エリはサムエルに、 「呼んでいないよ、自分のところに戻りなさい。」
そんな会話が3回繰り返された後、エリが神様がサムエルを呼んでいることに気がつきます。 そしてサムエルに、今度呼ばれたら、
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」 と話すように伝えます。 そして、サムエルは、主からの語りかけを聞くことができたのです (第一サムエル3:1-21)
最初、サムエルも祭司のエリも神様からの語りかけに気が付きませんでした。
でも神様ご自身が諦めず、語りかけてくださっています。
今も、同じ神様が同じように、私たちに語り続けてくださっている事は、大きな励ましとなりますね。
私たちは、初めは、勘違いもするかもしれない、神様の声とも思わず、無視するかもしれない、ちゃんと聞けないかもしれない。
それでも神様は諦めないで語りかけてくださる。😂
そして、最終的にサムエルを導いたのは、かつて同じように神様からの語りかけを経験していたエリでした。 神様の言葉を受け取っている人から学ぶことの大切さが分かります。
私も、まだベイビークリスチャンだった時、信仰の先輩からどれほど学んだことか❣️ 今でも学び続けてますが。
そして、神様の声を聞く、特に具体的なアドバイスは、
第一に神様の前に静まること。
自分の事、何かのことで忙しい時、神様からの声を心を研ぎ澄ませて聞く余裕なんてありませんよね。
Atheism is the religion of the busy. 無神論は忙しい人の宗教?
と言う言葉があるそうですが、 なんとなくわかりますね😅
そして第2ステップは、
聖書の言葉を繰り返し読んで、そこから感じたことを膨らませて考えてみる。
例えば、
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください
(ルカ11:3) を何度か繰り返し読んでみる。
日ごとの糧、(英語ではdaily bread) から焼きたての美味しそうなパンを思い浮かべてみる。 そこから、神様が私たちに日々用意してくださるパンは焼き立ての温かいパンなんだ🥖
もしかしたらある人は、自分は毎日神様からいただく焼きたてのパンを味わいながら美味しくいただいているんだろうか?🤔
冷たく、硬くなったパンを急いで、食べてはいないだろうか?🤭
と思う時、もうその気づき自体が神様の語りかけかもしれませんよね。 気づきは人それぞれ、違いますが、 神様からの語りかけも、ひとりひとりに特別なものなので、人と比べる必要もありません。
是非、お一人お一人が、静まって、時間をとり、神様の言葉である聖書に心を留め、そこから神様からのメッセージを受け取って、豊かな生活を築きあげてくださいね❣️
弱さの中に完全に働いてくださる神様。
こんにちは!
今日のBibleスタディの中で、
神様の助け、慰めは、あなたが期待するものとどのように違いますか。
と言う質問がありました。
真っ先に思い浮かんだ私の経験をシャアさせてください。😆
約10年前、最初のスペイン駐在から帰ってきて、すぐにBSF(バイブルスタディフェローシップ)と言う聖書を英語で学ぶ会に参加しました。
その後、いろいろあり、リーダシップグループに入りました。
英語もろくにできない私が、英語でのデスカッションのリーダー❓
最初は、とんでもない!
No way!!!!
って感じでした。
どんなに神様からの確信を祈っても、 何も与えられませんでした。
何ヶ月も、受けることができませんでしたが、 最終的に、
神様が、私をトレーニングさせる為に導いてくださった確信が与えられ、受けました。
本当に神様、その間、私をトレーニングしてくださいました。
最初の年の私のアサイメントは、 代理のリーダー
それぞれのグループを受け持つリーダーが、病気で休んだ時、何かの理由でデスカッションに出られないリーダーの代わりに、リードする役割です。
毎回、 どのリーダーも休みませんように! と必死で祈ってました。
ところが、
1人のリーダーが本国にクリスマス休暇で1ヶ月帰ることになり、 その間のデスカッションを任されました。😱
毎回毎回、
「神様、 ちゃんとできるように助けてください!」
と真剣に祈っていました。 私の期待は、ちゃんと英語でしゃべれて、有意義なデスカッションがで来ますように でしたが、
私の期待とは裏腹に、 相変わらず私の英語力は変わらず。😂
でも、
神様が共にいてくださること感じました。
確かに神様本当に助けてくださいました。
私の下手な英語でのリードにも関わらず、 グループのみんなが、積極的に発言して、活発な有意義なデスカッションになりました。😍😍😍
最初のデスカッションが終わった時、みんなが 拍手までしてくださったのです。
一人一人のメンバーが、Thank You!
と言ってくださり、もう本当に泣きそうになりました。😂😂😂
最初から終わりまで全て神様の働きでした。
神様は私にとっての最善をよくご存知で、 私の英語が完璧になるよりも、 神様のご臨在が、何にも増して素晴らしいことを教えてくださいました。
その後一ヶ月が過ぎ、 相変わらず、私の英語は同じ。😭
でも、必死の祈りに神様は、いつも答えてくださり、グループの一人一人の人と、とても仲良くなれました。 特にそのグループのひとりだった、スーリンは、神様からの最大の祝福でした! 今でも、どんな時にも祈り会え、励まし合えるベストフレンドです。
もし、私が願ったように神様の力によって英語が完璧になっていたら、 グループの一人一人の意見を真剣に聴くより、自分が思うことをペラペラ喋っていたかも知れません。 そしたら、活発なデスカッションなんてなかったかも。
願った通りには祈りは答えられなかったけど、
それ以上の祝福をいただきました。
私の恵みは、あなたに十分である。と言うのは
私の力は、弱さの中に完全に現れるからである
コリント第2 12:9
神様って本当に、すごいな〜
祈りセッション6、Contemplation
こんばんは!
間が開いてしまいましたが、 今日はセッション6 Contemplation で学んだことをシャアさせてください!
日本語にすると、瞑想とか深く静まって考える事とか、ですね。
Peteは、蘭の花を例えに使っていました。
根をよくみてみると、水面下で、絡み合いながら、伸びて行っています。
私たちのContemplation の祈りも、同じで、静まって神様との時間にフォーカスし、思いを巡らす時、私たちと神様との関係もどんどん根が伸びていくように、深くなっていきます。
根っこがちゃんと伸びていって根を張ることなしには花は咲きませんよね。
同じように、我を忘れて、神様のことに思いを巡らせることなしには、私たちの信仰も伸びていかないってことですね。
このContemplationの1番の目的は、
神様のご臨在を楽しむ。
神様は私たちの目には見えないけど、心を落ち着かせ、神様を心の中で神様を呼び求める時、神様の存在を感じる事ができます。
神様を信じてない人でも、神様助けて〜と叫んで、神様からの助けを経験した方も多いのではないでしょうか。
意識していても、していなくても、神様は常に私たち一人一人をみていてくださっています。 ぜひ静まって神様がいらっしゃることを感じてみてください。
そして、その中で、神様の愛に想いを巡らす。
一般に、瞑想と言うと頭を空っぽにして、 呼吸に集中したりしますが、 ここでは、心や頭を空にすることではありません。
あくまでも、神様に心を向けるのです。
ではそのプロセスは、
第一段階は、自分があって、神様。
自分の必要を満たしてくださる、神様の恵みに心が満たされる感じ。
第2段階は、神様があって、自分。
神様の大きな恵みの中で生かされている自分を感じる。(自分の存在が小さくなって行きます)
思う比重が、自分と神様から神様と自分に変わっていきます。
そして最終的には、
すっかり、我を忘れて、神様の恵みに心が満たされ、希望と喜びが湧き上がっていく感じ。
ここで、自分のことを忘れて、神様の恵み、偉大さだけで心がいっぱいになる過程で、心の浄化もされるんでしょうね!
その経験の積み重ねで、ますます神様との個人的な繋がりが深くなり、 花で例えると、根がしっかり張られて、 綺麗な花を咲かせる準備が整うのでしょうね。
神様は善の神様であり、私たちの、完全な天のお父様。
いつも変わらない愛で私たちを愛してくださいます。 そして、必死の祈りにも答えてくださる神様。
私たちはその恩恵に預かっていますが、
神様が一番望んでいられることは、
私たちと心を通わせ、話せること。
私自身、何よりも、息子たちとの会話が嬉しいです。😆
神様も同じですね。
私と息子たちの会話は、静まらなくてもできるかもしれないけど、 もし、息子たちが私のために心を落ち着かせ、時間を割いてくれたら、格別に嬉しいですよね。
静まって、心を落ち着かせ、神様のことを思い巡らせてみてください。
神様が身近に感じられる時、 どんな状況にあっても、 平安と希望があります。
“Anyone who trust in Him will never be put to shame."
「彼(イエス様)に信頼するものは、失望させられる事がない」
ローマ10:11
最後まで読んでくださって有難うございます。 皆さんに神様からの恵みと祝福がたくさんありますように❣️
スペインの長いクリスマス
皆さま、あけましておめでとうございます。
だいぶ間が空いてしまいました。🙇♀️
クリスマス前にギックリ腰になったり 持病の偏頭痛もあったりしましたが その間も、沢山の神様の恵みもありました。 本当にいつも感謝です。
日本の大抵のおうちは、 クリスマス後すぐに、ツリー、クリスマスグッツを片付け、お正月の用意ですよね。 我が家は、クリスマスのお片付けはいつも年明け。
大掛りなツリーを片付けるのが面倒?
それも一つありますが😅
長年住まわせていただいてきたスペインの慣習を尊重してです。😆
スペインではクリスマス行事は、年が明けても続きます。
聖書の中で、イエス様が生まれてから、東方の博士たちの記述があります。
“イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、” “「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」......
“彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。” マタイによる福音書 2:9-11 口語訳
この東方の三博士がイエス様に会った日は、イエス様が生まれてから13日目、1月6日と言われています。
1月5日の夜に東方の三博士がやってくるので、この日はスペインの各地でレイジェス(三博士)を乗せた盛大な山車のパレードが行われます。 私はマドリッドのパレードしか見たことがありませんが、ディズニーランドのエレクトリカルパレード並みの華やかさでした。
山車から沢山の飴が投げられ、山車の周りで子供も、大人も一緒になって飴を拾います。
残念ながら今年はコロナの影響で中止となりました。
そして6日の朝、 博士たちが届けてくれたとされるプレゼントを子供たち(大人も?)受け取ります。
そしてロスコン(roscón)と言う大きなドーナツのような、ケーキを食べます。 お砂糖漬けのドライフルーツ等がトッピングされています。 そしてその中に、小さな王様の人形と豆が入っています。 切り分けて王様の人形が入っていると、その人に幸運が訪れると言われています。 豆が入っていると、来年のロスコン代を払うそうです。
長いクリスマスの最後のイベント終わってしまいました。 それそろ我が家もクリスマスツリー片付けます。😅
今年も良い年となりますように。
皆様今年もよろしくお願いします。
祈りセッション5、Unanswered Prayer
こんばんは!
今日は、マドリッドのBible studyで始まった祈りのセッション5回目です。
このセッションでは、私たちの祈りが応えられていない時、どう祈ったらいいか、神様が私たちから遠く離れているわけではないことを学びます。
祈りは、確かに聞かれ、奇跡を起こします。 とは言え、いつも私たちが願った通りに叶えられるわけではありません。
祈りは、大きな喜びをもたらすと同時に、聞かれない時には、大きな落胆と痛みがあります。 神様から見放されているんじゃないかと神様の愛を疑うことされあります。
そして、祈りがなかなか聞かれなくて、苦しい状況の中もがいている時、もうどこかに隠れて、誰にも会わずに、ひとりこもってしまいがちですよね。
まず、イエス様からどう祈ったらいいのかを学びます
十字架につけられる前、弟子たちを連れて、祈りに行きます。 そこでのイエス様は弟子たちにこう言います。
「私は悲しみのあまり、死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい」
それから、イエスは少し進んでいって、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように祈り、またこう言われた。
「父よ、あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取り除けてください。
しかし、私の願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください」
マタイ14:34-36
イエス様は、弟子たちに、一緒にいてくれ、祈ってくれるよう頼んでいます。 そして、神様の前で、正直に、取り除いて欲しいことを言っています。
私たちも同じようにしていいのです。
友の前でも、神様の前でもいつも正直に願いを言っていいのです。 友にも神様にも頼っていいのです。
次に、祈りが聞かれていない時でも、神様は常に共にいてくださるということを、私の経験からお話しします。
私が、人生の中でいちばん辛かった時期は、めちゃめちゃ元気で、エネルギーに溢れていた息子が、やる気を無くして家に引きこもるようになっていった時です。
その頃の私はまだ信仰を持ったばかりで、神様だけが頼りでしたが、神様のことはまだよく知りませんでした。
四六時中祈っていましたが、決して、神様の御心がなりますようにとは祈れませんでした。
神様がどんな神様であるか、よく知らなかったので、ゆだねて、愛する息子が、どうなるのか怖かったのです。
あるお友達はどん底まで行ったら、必ず、立ち上がると励ましてくれましたが、
息子がどん底まで落ちていく前になんとか助けなければ。
でも自分の力ではどうにもできないので神様に頼って。
そんなふうに思っていました。
神様の助けは必要だけど、自分の力でも頑張る、それでいいのだと思っていました。
それでも、神様の憐れみで、良い方向に向かっていくこともありました。そんな時、すぐ調子に乗って、自分の思いで、私が余計なことをすると、事態は逆転して、元の木阿弥。
失敗の連続でした。
根本的な解決がないまま、何ヶ月も何年も続きました。
神様どうして祈りにこたえてくださらないのですか? と何度も何度も聞きましたが、神様からの明確な答えを受け取ることはできませんでした。
でも、その辛い日々、神様がいつも共にいてくれた事を感じて来ました。 だから、何とか耐えられたんだと思います。
失敗はいっぱいしたけど、その都度、神様は御言葉を通して、少しづつ導いてくださいました。 そして、時には直接、慰めを感じました。 同じ失敗を何回しても、神様に戻っていく時、叱責ではなく、いつも温かい抱擁でした。
この祈りのセッションで、祈りが答えられない時、 神様に どうして? でなく、
神様あなたをどこにいらっしゃるのですか?
と聞く事を薦めています。
いちばん辛い時 あなたはどこにいらしゃるのですか? の問いには、いつでも応えてくださいます。
いちばん辛いと時、 いちばん近くに神様がいてくださることを感じることができます
祈りがこたえられない時、神様の沈黙は、 神様の不在ではないということに大きな慰めと、希望を感じます。
私は頑なな心で、自分の願いを、かなり神様に押し付け、神様はその必死の祈りに、答えてくれましたが、結果的に、大きな遠回りをしてしまいました。
もう少し早く委ねることができていたら、私も息子ももっと楽だったのに、と息子に対して申し訳ない気持ちがあります。
でもその間に、いつも共にいてくださった、神様の多くの素晴らしいご性質を知ることができました。
それが私の大きな財産となっています。
神様は、遠回りしても何でも、全てのことを無駄になさらない、
改めて感謝の気持ちでいっぱいになります。
先のイエス様の話に戻りますが、 イエス様の正直な自分の願い、十字架にかかりたくないとの告白の後、イエス様は、最後に御心がなりますようにと祈ります。
そして、イエス様の願いは聞かれず、
全ての人間の罪を背負い、十字架にかけられ、亡くなりますが、3日後に甦られます。
死をも克服し、イエス様を信じる信仰により、私たちに神様との和解があり、神様の人間への救いの道が完成されました。
私たちの人生においても、祈りに応えられない経験があっても、究極それがベストだったと、後から思えることが、たくさんあります。
神様のご計画、御心は、時には私たちには理解できないこともありますが、私たちを愛してくださっていることは御言葉からわかります。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
ヨハネ3:16
そんな神様がいつも共にいて私たちを支えてくださる。 神様の恵みに心から感謝します。
最後まで読んでくださって有難うございます。 皆様にも神様の恵みが沢山ありますように!